私はコラム、エッセイ、随筆はいつでもどういうテーマでも書けると思っていますが、小説は感覚を訓練(?)しないと書けないと思っています。小説の中でも今日は「いわゆる啓蒙小説」についてお話したいと思います。
コラムなどは一つの伝えたいテーマさえあればすぐ書けると思います。例えば闘病の苦しさだとか、DVの苦痛とかはこの表現形式が適していると思います。というのも、等身大の表現だから同じ苦しみを味わっている人もその表現で傷つくこともないし、何よりもテーマが単一であることからわかり易いのです。
また、闘病やDVなどの外傷的体験を小説にする際に誇張した表現が、同じ苦しみを味わった人の反感を買いかねないのです。これはマイナスの表現ですが、同じようにプラスの表現をした場合、「私、こんなにいい子になれないわ」と反発を食らうこともあるかもしれません。
つまり、同じ自己表現でも誇張なく、率直にこのことを伝えたいという場合にコラムなどは適しています。また、自分の深層に入るのが辛すぎるけど人に何かを伝えたいという場合もこの表現形が適しています。自分の深層に入らないから、他人に伝わるときも外傷的でないのです。深刻なことを率直に伝えるのに適しているのはこういう側面もあるのでしょうね。
かたや小説。人はなぜ小説を書くのか。小説とティーンズ小説などの物語は基本的に違うものだと私は認識しています。年齢的に私はティーンズ小説をスルーしてしまいましたが、実は小学生の後半2年で見切りをつけて卒業してしまっているのです。ティーンズ小説は基本的に読む気にはなれません。なぜならば、よく出来た漫画よりも意識の座が浅く、下手をすると書き込んだコラムや随筆よりも意識の座が浅いからです。
一方で小説が読めなくなった時期がありました。それは精神の病気が落ち着かず転院を繰り返していた頃。あの時は新書本とノンフィクションしか読めなくなっていました。なぜ小説が読めないのかというと、余りにも内面に深い表現をしていて、逆に読んでいる自分に深く突き刺さってくるから。余りにも訴えかけてくる問いが大きすぎて、それに精神が答えきれず拒否反応を起こし、集中できないという拒絶反応を起こしました。こうして小説が読めない期間が10年近く続いていました。
小説の目的は世に複眼視的な現象を提示し、問いかけること。そして自分自身を深いとこらで開示することでの表現です。コラムなどとは深さが断然違うのです。精神科に通院中の人で小説を読めなくなったという人は少なからずいるはずです。小説は受け止める自己が安定していないと楽しむことは出来ないと思います。
小説で深刻な問題を扱う、啓蒙する、というのは認識が浅薄な見方だと思います。というのは、深刻な問題は誤解されることなく受け止められなければいけない、きちんと伝えられなければならないものです。そこに色々な表現のノイズやらアーチファクトやらが入り込んでしまえば伝わるものも伝わらなくなります。
また、ティーンズ小説の深さで「小説化」しても十分には伝わらないし、通常の小説の深さで「小説化」したら、実際その問題で苦しんでいる当事者に刺さりすぎて見るに耐えないものになる可能性があります。当事者は下手をすると精神疾患と同じくらい精神的に弱っている場合もあります。そうすると、深い表現では刺さりすぎて受けることが絶えがたくなってしまいます。当事者を置き去りにした表現に一体どんな意味があるというのでしょうか。
そう云う意味で表現手段というものはいろいろな意味において相手を選びます。安直に手段を選んではいけないという事です。表現の深さを考えて表現に当たらないと、自分のエゴにのっとったパフォーマンスばかりに走っていると、いつかは人を殺すと思います。くれぐれも表現をするときは対象(読者、受け手)と意識の座(自分の意識の深さ)をよく自分の感覚に素直になって自覚しながら表現をしていきたいものです。
結論:学研の学習マンガのような小説には存在価値はない。
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<参考> p154の「偏見と小説」
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