世の中極端なことをしたり極端なことに巻き込まれた女性には、決まって美人が付く。オスカー・ワイルドの戯曲のサロメは振られた腹いせに振った男の首を切らせるという残虐極まりない人物であるが、彼女にまつわる描写は彼女が美人であるということを証明している。阿部定事件の阿部定も当時の美醜の感覚からいけば並の部類に入ったと思うけど、やったことが極端なのでなぜかしら後年彼女を演じる女優がきれいな人だったり描写が美人を模しているということは多い。
また、殺害された女性にもなぜか美人が付く。美人女教師殺害、美人ママ殺害、美人秘書殺害、美人女医殺害。
これはマスメディアの女性の美醜に対しての決めつけの例としては面白いと思うけど、つくづく美人という言葉は安売りされていると感じてならない。私のイメージは間違っても美人女医ではないとだけ断言して今日は眠ろう。
生きていくだけで目一杯、精一杯なので、出版ということは考えたこともなかったけど、メルマガの原稿を元に知っている人に編集をお願いして自費出版をしようとは考えていた。実際知っている人が自費出版をしたということの影響もある。
よほど余裕がないと無理だと思った。というのも私が見込んでいた金額の約5倍も金額がかかるというから。自費出版専門のある会社は「表現する人が主体の」云々言っているが、さにあらず、受け止める人がいて初めて表現なのであり、正直なところ、現象さえ起こりさえすれば、そこで誰がかかわったかなんてどうでもいいことなのかもしれない。表現とは表現する人のものではなくて、あくまでもそれを投影する受けての、心の中の現象に過ぎないのだから。
自費出版の怖いところは国産車1台分のお金で1冊の本が作れてしまう。これは、調子に乗っている人は絶対に騙される。
B6版の144pの本なら自己負担170万円で500部…一冊あたり3400円だという。これは永年勤続者が退職金で自分史を書いて知人に配るのであればいいかもしれないけど(もらうほうは迷惑かもしれないけど)、それにしても500冊もいらない。30冊で十分だと思う。地元の印刷屋さんで十分…と思うし、そうした自費出版専門の出版社から出た本が市場に流通しているという話も、新聞などで宣伝されているという話も聞かない。
以前ぽしゃった企画(ブログを閉鎖したため)で、20000アクセスで『偽悪ちゃんシリーズ』応募権、納期1ヶ月というのがあったけど、そう云う企画のために1冊単位で注文できるシステムがあったらいいなと思う。はてなの方にUPしてみれば100ページの本は2100円で出来てしまうけど、今度こそのブログの20000アクセス、はてなの10000アクセス、偽悪ちゃん+精神科研修の思い出のコピー本の応募権利でどうでしょ。前後賞あわせて各3名。作るのはあたしが一枚一枚縦に段組してプリントアウトして心をこめてホチキスで綴じます(誰が応募してくれるのやら…)なんか貧乏くさいなぁ。でも、昔こういうの作った。懐かしい、何時、そうね、小学校のとき(殴)とりあえず偽悪ちゃんシリーズは完全版がエキサイトにしまってあるので引っ張りだしてきます。えーと明日の予定次回は健康な退行、趣味について。
自費出版の額の具体的なところは、メルマガ「秘伝」を参考にしました。
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春が来た。煙くさい土埃が舞い上がって髪の毛がパサパサになる。引越しの準備の話ばかりしているけど、物事は順調に進んでいる。ただし、腰椎すべり症を病んでから重いものを持つと思いっきり腰が痛む。痛い腰を抑えながら荷物を別室に運んだ。もう雪が降り積もる心配もない。
引越しを重ねているけれど、本以外の荷物はCDなども含め年々減る傾向にある。そのうちお気に入りの数冊といくつかの着替え以外なくなるんじゃないかと思う。今回洋服なども45lゴミ袋1杯分捨てた。買うときは気軽に買うが、捨てるときは気軽じゃない。尤もどちらも気軽じゃなくなればお金も貯まるんだろうと思うが…
本は再販される見通しのない本もあるので、実家に送っているものもある。いずれ必要になったときのために。しかし、そのいずれ、がいつになるかはっきり分らないので本が一番捨てるのに困る。CDも「珍しいのは即買い」の友人がいたが、たしかにCDの再販も見通しの立たないものが多い。CDは面倒なので、全てmp3に落とした。しかしそのPCが音源ファイルをCDに焼いたり、メディアに落とす前にクラッシュしたため、面倒臭くなってSDカードプレーヤーは開けずにいる。何となく面倒臭いことがつまっていそうなパンドラの箱である。
小学校中学年から20年買いためたり(私はライトノベル、ミステリーは基本的に読まないので蔵書は余り変わらない)、旅先で捨てずを得なかった本やCDを思うけど、こうして見れば絶対に必要なものなんかなかった。『夜と霧』すら図書館で借りて読んだ人間である。絶対に買わなきゃならない本というのは自分の商売道具以外はなかったし、最初の数年を越えれば医局の書棚から雑誌を借りて読むのが精精になる。
さて、本はあんまり買い込むもんじゃない。理想は読み捨て(実際捨てたり売ったりはしている)であるが、読み捨てできるほど作品にのめり込めない。そして「またいつか読むさ」と、いつもこういう重たいダンボールの荷物を作ってしまう。本は大きなダンボールにつめると大の大人でも腰が痛くなる。ほどほど軽い荷物とちゃんぽんに荷造りをし、私は引越しの日を待つのである。
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私はコラム、エッセイ、随筆はいつでもどういうテーマでも書けると思っていますが、小説は感覚を訓練(?)しないと書けないと思っています。小説の中でも今日は「いわゆる啓蒙小説」についてお話したいと思います。
コラムなどは一つの伝えたいテーマさえあればすぐ書けると思います。例えば闘病の苦しさだとか、DVの苦痛とかはこの表現形式が適していると思います。というのも、等身大の表現だから同じ苦しみを味わっている人もその表現で傷つくこともないし、何よりもテーマが単一であることからわかり易いのです。
また、闘病やDVなどの外傷的体験を小説にする際に誇張した表現が、同じ苦しみを味わった人の反感を買いかねないのです。これはマイナスの表現ですが、同じようにプラスの表現をした場合、「私、こんなにいい子になれないわ」と反発を食らうこともあるかもしれません。
つまり、同じ自己表現でも誇張なく、率直にこのことを伝えたいという場合にコラムなどは適しています。また、自分の深層に入るのが辛すぎるけど人に何かを伝えたいという場合もこの表現形が適しています。自分の深層に入らないから、他人に伝わるときも外傷的でないのです。深刻なことを率直に伝えるのに適しているのはこういう側面もあるのでしょうね。
かたや小説。人はなぜ小説を書くのか。小説とティーンズ小説などの物語は基本的に違うものだと私は認識しています。年齢的に私はティーンズ小説をスルーしてしまいましたが、実は小学生の後半2年で見切りをつけて卒業してしまっているのです。ティーンズ小説は基本的に読む気にはなれません。なぜならば、よく出来た漫画よりも意識の座が浅く、下手をすると書き込んだコラムや随筆よりも意識の座が浅いからです。
一方で小説が読めなくなった時期がありました。それは精神の病気が落ち着かず転院を繰り返していた頃。あの時は新書本とノンフィクションしか読めなくなっていました。なぜ小説が読めないのかというと、余りにも内面に深い表現をしていて、逆に読んでいる自分に深く突き刺さってくるから。余りにも訴えかけてくる問いが大きすぎて、それに精神が答えきれず拒否反応を起こし、集中できないという拒絶反応を起こしました。こうして小説が読めない期間が10年近く続いていました。
小説の目的は世に複眼視的な現象を提示し、問いかけること。そして自分自身を深いとこらで開示することでの表現です。コラムなどとは深さが断然違うのです。精神科に通院中の人で小説を読めなくなったという人は少なからずいるはずです。小説は受け止める自己が安定していないと楽しむことは出来ないと思います。
小説で深刻な問題を扱う、啓蒙する、というのは認識が浅薄な見方だと思います。というのは、深刻な問題は誤解されることなく受け止められなければいけない、きちんと伝えられなければならないものです。そこに色々な表現のノイズやらアーチファクトやらが入り込んでしまえば伝わるものも伝わらなくなります。
また、ティーンズ小説の深さで「小説化」しても十分には伝わらないし、通常の小説の深さで「小説化」したら、実際その問題で苦しんでいる当事者に刺さりすぎて見るに耐えないものになる可能性があります。当事者は下手をすると精神疾患と同じくらい精神的に弱っている場合もあります。そうすると、深い表現では刺さりすぎて受けることが絶えがたくなってしまいます。当事者を置き去りにした表現に一体どんな意味があるというのでしょうか。
そう云う意味で表現手段というものはいろいろな意味において相手を選びます。安直に手段を選んではいけないという事です。表現の深さを考えて表現に当たらないと、自分のエゴにのっとったパフォーマンスばかりに走っていると、いつかは人を殺すと思います。くれぐれも表現をするときは対象(読者、受け手)と意識の座(自分の意識の深さ)をよく自分の感覚に素直になって自覚しながら表現をしていきたいものです。
結論:学研の学習マンガのような小説には存在価値はない。
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<参考> p154の「偏見と小説」
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